『書評の書き方』では、アイドル時代の小泉今日子の発言がきっかけのひとつとなり、吉本ばななのデビュー作がベストセラーになったことについてふれた。
その後、年月を経て、小泉今日子は読売新聞で書評を担当するようになり、やがて1冊の本にまとまった。これが予想にたがわぬ、いい書評のオンパレードだった。
過去のキャリアにふれる
10年にわたる書評97本が1冊にまとまると、小泉今日子の人生が浮かび上がる。
「二十二歳の私の日々は目が回るほど忙しく、文字の通り心をなくしていたと思う。仕事をしている以外の時間は無気力で、息を吸って吐くということすら上手に出来なくなっていた。(中略)ただ一冊の小説を読んだだけなのに、心は私の元にすんなりと戻って来てくれた。」
これは当時の新刊だった、よしもとばなな『スウィートヒアアフター』を取り上げた回からの引用だ。この原稿で、小泉今日子はよしもとばなな作品との出会いを書いている。
つまり、この箇所は『キッチン』の書評なのだ。同時に、よしもとばななという作家の紹介にもなっている。過去のキャリアにふれるのも、書評テクニックのひとつである。
読者の心理状態に踏み込む
よしもとばなな(※)の名前は聞いたことがあっても、読んだことのない人がいる。そういう人は先ほどの引用箇所を目にすることで、イメージをふくらませることができる。
※当時の表記。現在は再び「吉本ばなな」
あれはアイドルとして絶頂期にあった小泉今日子の日常がベースになっている。が、仕事に追われて自分を失っている人なら、世の中に大勢いて、自分を重ねることができる。
つまり、こんなときに読むと、よしもとばななはいいですよってことを示唆しているのだ。現在そういう状態の人、かつてそうだった人は手にとる可能性が高い。
ハウトゥ本の類は必要に迫られて読むことが多いが、小説を読む行為は気分に左右される。このように読んだときの自分の心理を記すという形での「感想」も効果的だ。
エッセイ的な書評
また、すでに、よしもとばななのファン、小泉今日子のファンはこのくだりを見ることで、「こんな風に読んでいるのか」という興味を満たすことができる。
ここらは芸能人・小泉今日子のゴシップ的要素も含まれているわけで、さすがはエッセイの名手というところ。一般の書評家には、マネできぬ部分だ。
キミが世間的に無名な場合やライターとして匿名の書評を任される場合、自分語りをするような文章は好ましくない。読者はそんな事情を知らないし、興味もないからだ。
例外として、学校や会社、地域社会の人気者がそのコミュニティの人たちに向けた媒体に発表する文章がある。そこでのキミは有名人だから、エッセイ的な書評も許される。
登場人物に自己を投影する読み方
エッセイ的な書評とはどういうものか、反面教師として、もう少し見てみよう。
岸田今日子『2つの月の記憶』の書評──
「ラブとエロスの狂おしい妄想の世界。けれど、静かな空白と可愛らしいユーモアが混じっている。この本を読みながら、私は岸田今日子ワールドに潜入してみようと試みた。女優としての自分の役を探すのだ。」
女優としての自分、なんて言われても、著者が小泉今日子であることを知らない人には関係ない。「女優」という属性が前提となっての書評だということがわかるだろう。
ただ、作中の登場人物のひとりに自己を投影して読むのは一般の読書家もやることだ。そのあたりをおそらくは計算して書いているところが小泉今日子のうまさである。
ゴシップは人柄を伝えたいときに使う
きっと、あなたも、こういうふうにして読むよね? という暗黙の問いかけは読者に強くゆさぶる。へぇ、キョンキョンはこの人物に自分を重ねるのね、という興味もある。
さらに、7つの短篇のうち、最後の一篇だけは自分を重ねることが無理だったと書いて、それがどういう内容か知りたい気持ちにさせるという工夫もしている。
ちなみに、昔、ラジオで小泉今日子が海外旅行に行ったとき、現地で会った日本人に指さされ、
「あっ、あの子だれだっけ。ほら……そう、岸田キョンキョン!」
と言われたというネタ話をしてた。
なんてゴシップも、小泉今日子の人柄を紹介するエピソードとしては使える。
文学的な文章はいらない
これを応用するなら、自分の親や上司が小泉今日子と岸田今日子をまちがえた、なんてエピソードをからめて、ファン以外の人に関心をもたせるといった方法が考えられる。
そこから、著者紹介につなげるという技も使える。もちろん、「キョンキョン」が通じる読者層でないと、このままは通用しない。パクるではなく、型として応用する。
書き手がだれであるかによって、書評の書き方は変わってくる。ここまでは、小泉今日子という芸能人を例にしてきたが、作家の書評も特殊なものだ。
自分の好きな作家の書評をマネて書くと、たいていダメな書評になる。ごくまれに作家でありながら、すぐれた書評の書き手もいるが、エッセイ的な書評はマネしないこと。
記憶を喚起させる
無名のライターが属性を出していいのは、属性が一般的な場合だ。
「私は、まだ大人でも、もう子供でもない、ただ無力な十四歳の自分にいつもがっかりしていました。」
これもじつは、小泉今日子による、マンガ『逢沢りく』の書評だ。14才というのは、だれもが経験しうる属性である。
この場合、書き手も主人公とおなじ女性の方が説得力があるが、男性でも書きようはある。自分が14才のころ、おなじクラスにこんな女の子がいた、というのがその一例。
いきすぎると、エッセイというか、想い出作文みたいになりがちなので、それはさけなければならない。「いた、いた」と共感を喚起させる程度になら、書評に使っていい。
文才を見せびらかすのが目的ではない
ここまで引用してきた小泉今日子の書評はわざとマネしたくなりがちな文章を抜いた。そして、これらはマネしてはいけないよ、という参考にしてもらうために抜いた。
言ってみれば、「文学的」な文章だ。オシャレな言いまわしや自分の文才を見せびらかすような表現はさける。本書で目指すのは、無名ライターが読み手の心を動かす書評だ。
書評の読者は無名な人が圧倒的多数なので、無名のライターの方が共感を得る文章を書きやすい。自分のあたりまえの生活を土台にできるだけニュートラルな表現を心がける。
それが自分で選んだ本なのであれば、「こういう自分がこういう興味でこの本を選んだ」ということを記すことだけでも、読者にとっては、有益な情報になりうる。
新聞書評の裏事情
少し裏話的をすると、新聞・雑誌の書評には書き手が作品を選ぶものと、出版社からの依頼を受けて紹介するレビューがある。さらには、もっとロコツな記事広告もある。
大手の新聞本紙は編集委員会が組織されている。この編集委員内でどのように書物が割り当てられるかという経緯は『小泉今日子書評集』の特別インタビューにくわしい。
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