自分でオタクだと思っている人も思ってない人も、オタク的文章を書く危険性がある。オタク的なのがすべて悪いわけではなく、良い例としては江戸川乱歩の『幻影城』その他の評論がある。ここでは悪い例を挙げる。
最初に、オタク的ということを簡単にまとめておくと、
「趣味的な分野の特定の対象に強い愛着と広い知識をもっていること」
で、それじたいが悪ではでない。
それが書評(ブックレビュー)などの文章を書くとき、ダメな方へ発揮されてしまうのは、書き手の態度に原因があると見ていい。
「自分とおなじ価値観しか認めない」
という批評性の欠如だ。
たとえば、アイドルAの写真集について、こんな会話があったとする。
B「水着の写真が3ページしかないのに、こんなに値段が高いなんてクズだ」
C「Aちゃんの悪口を言うなんて許せない」
このどちらもオタク的だ。Bの方が基準を示しているだけ、まだマシだが、写真集の評価がなぜ水着写真のページ数で決まるのかが意味不明。Cは思考停止の感情吐露だが、このレベルの自称・書評はくさるほどある。
自分が好きなものをけなされたら、腹が立つし、逆に、くだらないと思っているものがチヤホヤされていたら、けなしたくなる。そういう感情はだれにでも起こりうるもので、立派な批評家の根底にだってあるものだ。
ホンモノの批評家であれば、自分の評価を説得力のある文章にする。書評家であれば、その本を読みたい買いたいと思わせる。そのためには、文章力という技術がいる。悪しきオタクは自分のことしか頭にない。
「他人をけなすオレってカッコいい」
「こんなにもコレを好きな自分が好き」
それは自分の売り込みであって、書評ではない。その上、ホントの意味で、その対象を愛しているとも言えない。
【参考文献】
『書評の書き方: ベストセラーを作るブックレビュー』
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