書評が悪しきオタク的文章の書き方になっていないか(2)瑣末的
オタク的と聞いて、すぐさま思い浮かぶのは、重箱の隅をつつくような、こまかいことにこだわる態度だろう。それがプラスになることもあるが、悪しきオタクはそれをとんちんかんな批判の材料にする。
こんな文章があったとしよう。
「言い合いなどの最中に、女性が突然古い話をもち出してくるのは、○○だからだ」
この文章のポイントは○○になにをもってくるか。それによって読者の反応が変わる。
「なるほど、そうだったのか」
「なーんだ、その程度の話か」
「なんだか、ちがう気がする」
悪しきオタクはこれを「著者が無知をさらけだした雑でまちがった文章」とけなす。
なぜなら、「すべての女性が突然古い話をもち出してくるわけではない」から。それによって、悪しきオタクは自分が著者よりエラいことを示したつもりらしいのだ。
どうでもいいことだよねぇ。
文章には、文脈や論旨というものがあり、それと無関係なところで揚げ足をとってもしかたがない。物事には傾向があって、例外はいくらでもあるが、傾向を論じているときに例外は関係ない。
これが好きなアニメについてのことだと、
「△話に『××』というセリフがあるのを知らないのか。この著者はなにもわかってないバカだ」
といったズレたことを言い出したりする。
こうした指摘のすべてが無意味というわけではない。よくある文庫本の解説に、
「著者は大阪出身だけあって、会話にテンポがあり、漫才を思わせる」
みたいなパターンがある。しかし、著者は出生地が大阪なだけで、生まれ育ったのは横浜だってオタク的知識があれば、この無責任な解説のインチキをあばくことができる。それにいくらなんでも、大阪出身だから漫才って……雑すぎるよねぇ。
【参考文献】
『書評の書き方: ベストセラーを作るブックレビュー』
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