収入を得ることに関しては、2つの考え方があって、これが労働のスタイルを決める。
「努力に対する正当な対価が欲しい」
「楽して、もうけたい」
キミはどちらだろう?一般には努力型が奨励されて、手抜型を希望すると叱責される。
「世の中、そんなに甘くない」
と有名なキリギリスの最期を聞かされる。
イソップ寓話と2つの別ヴァージョン
「アリとキリギリス」として知られるイソップ寓話は、もともと「アリとセミ」だった。内容のおさらいに加えて、せっかくだから、別ヴァージョンを2つ紹介しよう。
(イソップ版)夏の間、働いて蓄えをしていたアリを横目に歌い、遊び暮らしていたセミが冬に飢え死にする。勤勉の美徳や「備えあれば憂いなし」と解釈されることが多い。
(逆転版)夏に働きすぎたアリが過労死し、その遺産でセミが飢えずにすむ。説教くささに反発するジョークとしてはいいけれど、現実過労死はそう単純な問題じゃない。
(経済寓話版)もう1匹、セイサクという虫が登場する。セイサクのもたらしたゼロ金利とインフレによって、アリの蓄えは価値をなくし、いわば腐って、セミとともに死ぬ。
不労所得だけが「楽」ではない
さて、絵本などで紹介されるときには、セミならぬキリギリスは音楽家のように描かれ、その労働は不労所得のイメージで語られる。そこに落とし穴がある。
アリのような会社員(イソップの時代で言えば、奴隷)の中にも楽してるやつはいるし、努力型のアリやセミ(キリギリス)だからといって、正当に評価されるとはかぎらない。
つまり、アリのふりしたセミが楽して、もうけていることもあるし、働けど働けど蓄えなどできぬアリのつもりでアリになってないのもいるってことだ。
だからといって、セミが得かというと、社会的にはセミ撲滅キャンペーンの趣があるので、自分はセミだと表明して生きることはかなりのリスクを背負うことになる。
社会通念も自分の資質も無視できない
自分は「努力に対する正当な対価が欲しい」のか、「楽して、もうけたい」のか、方針をハッキリさせた上で、自分はそれにそった生き方ができているか検証することだ。
どちらの働き方が正しいということはない。ただ、社会通念的にアリの側が正義とされているということは頭においた上で、自分の資質を見極め、ふさわしい働き方をさがそう。
P.S.
じつは、イソップ版は単純な内容ではない。
「ならば冬は踊って暮らせ」
とキリギリスを冷たく見殺しにしたアリの姿にこの世の真実が含まれている。
たとえば、低所得者層や浮浪者などの問題を語るとき、「自業自得だ」と切り捨てようとする優等生がよくいるだろう。彼らは自分の努力が無になることが許せないアリなのだ。